今、私がで研究している内容は、
造型をプロデュースする力(=デザインする)についてである。
「総じて、日本の製品はつまらないデザインのものが多い」
頭に、がっーんと残るような、この言葉と、うん、そうかもしれない・・・、思う気持ちが一緒にグサッと、私の心に刺さった。
これが、研究のきっかけである。
研究手法として、ダダイズムや、シュールレアリスムの時代に着目してみた。
この前衛芸術運動の中で、発見された、(生み出された)芸術手法を読み解くことによって、
これらが現代におけるデザイン(この場合、産業デザインに絞る)に
応用するヒントになるのではないか?ということである。
が、これらの芸術運動で生み出された手法が、実は直接関係はない。
しかし、芸術がどういう形で応用されるかというのを整理して投影していくことはできるだろう。
今日において、日本のデザインはつまらない と言われてしまう原因に、工業デザイン、商業デザインが、蛸壺状態になっている現状がある。
既存の概念にとらわれていることが多く、視野が狭くなっている。
ノウハウやマーケットリサーチにガッチガチに縛られすぎて、デザインはサーフェスデザインにすぎなくなっている。
つまり、表現だけを覆うデザイン。
合理性追求、例えば空気抵抗など。理論武装しながら、実はインチキなことやっていても、スマートな顔して流している。
冷蔵庫に、流線型は必要なのか?!洗濯機に流線型は必要なのか?!
かつての、
ル・コルビジェ、スカルパ・・・etc
彼らは、工業デザイン、商業デザインに純粋芸術をぶちこんだ。
それは、例えば、画家がボトルのラベルに絵を描いたりとか、一部に手を加えて芸術だというようなまやかしのようなことではなく。
ダダやシュールレアリスムなど、芸術を否定した価値がコンセプチュアルアートなどと言われてきた。
ダダイスト、シュールレアリストは、その当時の画壇を否定しているけど、
彼らは、ただ単に否定とそれまでの美徳・価値観を破壊しただけではない。
芸術にとって大事なものが何なのか、洗い出したのだ
例えば、マルセル・デュシャンがダ・ヴィンチのモナリザの絵にひげを付け足して描いた「L.H.O.O.Q」
これは、既存の美に対する価値を嘲笑したことで、時代に大きくインパクトを残したが、
もう一つ、彼らのこのような行動によって、はっきりとさせたことがある。
モナリザが、いかに何をやっても、否定しようが否定しないが、"揺るがない"ということだ。
結局デュシャンというのは、過去の芸術に対して、その表現手段が試行錯誤であっても、大きな山を登っている一人にしか過ぎなかった。
大きな山とは、レオナルド・ダ・ヴィンチはじめ、旧来の美に対する価値観への挑戦だった。
ダダ・シュールレアリスムの時代の芸術家たちは、
とっても大きなことをやろうと、本人たちは思ったけれど、
それは逆の効果をもたらし、その山の正体、その山の大きさ を改めて知らされる結果になったのである。
ダダイズム、シュールレアリスムは、
時代のカタストロフィとしてとらえるだけでなく、
その時代の中で、芸術という本質を見極めるための羅針盤の役割をしたのだ。
ただ、モナリザを製品にしても意味はない。
自分の中でモディファイすることは、変わらないが、
作品を作るのは、発見する、行動する、
ということと、様式や、時代を越えるということだ。
アンドレ・マルローが空想の美術館で、
本当に素晴らしいものは、時代と民族と、材料と様式、全てを乗り越えて、表現できる。
と述べている。
ここで改めて、ダダイズム、シュールレアリスムが否定と破壊、壊れた先に見えるものに重点を置くだけでなく、否定と破壊、それでも、壊れずに否定されても残ったものにも、焦点をおきたい。
そこにおいて、時代、様式、民族などを超えた揺るがない 純粋芸術が抽出され、
そしてこれが、造型する力のヒントを得ることができるのかもしれない。
ル・コルビジェやスカルパのように、
工業デザイン、商業デザインに、
芸術、そのものを、ぶち込んでみる。
理論武装して合理性だけを求めた製品デザイン。
性能だけでは感動を残さない。
形の美しさ、持つことへの喜びを与えられるものを、創り出せたら素敵である。
というのも、私たちは、美に関するとか云々とか、そういう表面的な言葉でなくて、
夢のあるモノをつくり、それを提案していきたいのだから。
